「猫の駅長」のこと

7月 26th, 2015

先日、通り掛りのコンビニに入って、買い物を済ませて外に出ようとした時、ふと、窓際に陳列されていた沢山の本が目に留まりました。週刊誌や月刊誌や漫画等、溢れんばかりの種類の本が並べて有り、その中に、「大往生の猫の駅長」と言う様な文字と一緒に、二か月位前に死亡が報道されていた「猫の駅長」の写真が載っていました。「電車の駅の駅長の帽子をかぶり、首にはこれまた駅長を表すと思われるメダルをぶら下げた」おなじみの三毛猫の写真でした。私はこの「大往生」と言う文字が妙に気になったのです。普通「大往生」と言えば、今ならば、人間の場、合少なくとも百歳は越えて元気なままで亡くなった人の事を表す言葉ではないかと思うのです。さて、この三毛猫、人間で言えば何歳くらいだったのか、当時のニュースや新聞報道を見ていなかったので詳しい事も知りません。ですから、この猫が、駅長をやったのが「何時からいつまで」で、人間で言えば00歳位に当たる、という事も知らないままでいたところに、この文字を見た訳です。考えてみれば、「人懐っこい猫」だったとは言え、ある日から、突然、人間の都合で、勝手に帽子を被せられ、はおりたくもないもないチョッキ様の衣服まで着せられて、人通りの多い、駅の改札口近くの台の上に座らされ、一日中人目にさらされ、時には「写真のモデルにさせられたり」と大忙しの毎日を送っていたのではないか、と思えたのです。人間に限らず、生き物は、自分の意に反していろいろやらされることは、ストレスの元になるのではないかと思われ、この駅長さんも、或る意味で、大変なストレスを背負込んで居たのでは、と思えたからです。そう言う意味で、この駅長さんは、ストレスの真っただ中に身を置いて、数えきれないほどのストレスを背負込んで、「ストレス漬け」になったままその生涯を終えたのでは?と、ふと、思えたからです。大往生どころか、内臓や脳等を医学的に調べて見たら、いずれも、「ストレスによりかなりの損傷を受けていた事が分かった」なんて事になった等と想像を巡らせて居たのです。二代目の駅長も出来たようですが、猫に限らず、人間の都合で、勝手な理由を付けて、生物を拘束することは「拘束される側」にとっては大変な苦痛になっているのでは、と、「猫の駅長」の記事を読んで感じたままを書いてみました。

花見のこと

4月 3rd, 2015

今年も花見の季節がやって来ました。私も四月初めの月曜日に仲間達と一緒に近くの小牧山へ行ってきました。小寒い日が続いていましたが、この日だけは見違えるような好天に恵まれて、うららかな春の日差しを浴びて、ゆったりとした時間を過ごすことが出来ました。SANYO DIGITAL CAMERA仲間はいずれも「詩吟の愛好家」ばかりです。芝生の上にマットを広げて車座に座ると誰からともなく声が出て、続けて一時間弱教本を見ながら発声を繰り返しました。近くのお店で買ってきたお弁当も「花見弁当」と名付けられ雰囲気を盛り上げてくれました。SANYO DIGITAL CAMERA毎年来ては眺めている桜の花ですが、その年その時に新しい新鮮な雰囲気が漂っているのが不思議なくらいです。私も「高齢者の仲間に入り」足元が少々不安定になって来ましたが、この花見だけは欠かさず続けたいと思って居ります。せめて後四五年は元気で暮らし、「ハヤブサ2号」の帰還を確かめてみたいとひそかに決心しているところです。

「ひな祭り」のこと

3月 15th, 2015

毎年3月が近づくと商店街等の売り場には「明かりを点けましょぼんぼりに・・・」の懐かしいメロディーが流れます。そして店内には、これでもか、これでもか、色取り取りのおひな様のお飾りが飾られます。小さな女の子をお持ちのお母さま方は、見るもの全てに目移りして、どれにしようか、これにしようかと、迷われることでしょう。私はこの「ひな祭りの3月」に、懐かしくも切ない思い出が有って忘れる事が有りません。それは、今から70年以上前、終戦の1乃至2年位前の3月でした。当時私は、「国民学校1年か2年生(現在の小学校1年か2年生)」の頃でした。日本中が戦争一色で、「米軍機による本土空襲の噂」が、人伝に聞かれ始めた頃だったと思います。学校のクラスの中に、とても人気のある女の子がいて、何かの時にその女の子の家に、外の友達と一緒に遊びに行った事が有りました。大きな門構えのある家で、今風に言えば「大豪邸」だったと思います。中に通されて客間の様な部屋に入り、更に、その女の子の部屋「個室」に通された時です。目の前に、お人形さんが沢山並んだ大きな飾り棚が見えてきました。私が「節句のひな祭りのおひな様の雛壇を見た瞬間」でした。何段有ったのか覚えていませんでしたが、とにかくその時の雛壇は、私の視界一杯に広がって飛び込んで来たのです。私にとっては、大変な衝撃的な出来事だったのです。家へ帰ってから夕飯の時だったと思いますが、その時の事を話したところ、母が、「あの家は武芸者さん{お金持ちの意)だから」と言う様な意味の事を言って、そのあとは、家族の誰もその事を話題にしませんでした。私は当時、その意味も分からず、「うちにもあれ飾ってよ」と、かなりしつっこくおねだりして、最後には、母に「大声で叱りつけられた」記憶が有りました。此の時、母は「ひな祭りは女の子のお祭りなんです、男の子のお飾りでは有りません」と、言う様な意味の事は一言も言わなかったのを覚えています。若し、此の時、母が、「3月のひな祭りは女の子のお飾りで、男の子のお飾りは5月の鯉のぼりです」と言う様な事でも言って、諭して呉れたなら、或はそんなにしつっこく「おひな様を飾ってくれ」と、駄駄を捏ねたりはしなかったと思うのですが・・・。今その時の母の気持ちを考えてみる時、思い当たる事が有りました。それは、私は次男坊で、私の上に2歳年上の兄がいて、その更に5つ上に、長女の姉さんが居たのです。私の7つ上のお姉さんです。その当時姉は、今で言うところの中学上級生位だったと思います」。その姉のいる前で、私がしつっこく「ひな飾りをしてくれ」と駄駄を捏ねたりしたので、母は、姉に気を使って「ひな祭りは女の子のお飾りです」という事を明言しなかったのではないのか、と思ったのです。それより以前に、私の家で、ひな祭りのひな飾りが出された記憶が有った様な気もしますがはっきりした記憶が有りません。敗戦の1年か2年位前の事で、日本が貧乏になり始めた頃の事です。私の「駄駄」が母の一番つらい部分を刺激したのではないかと、いまとなっては、切なく思い出されるお雛飾りの風景です。その母も、姉も、兄も、そして父も、この世を旅立ってしまいました。毎年繰り返される「ひな祭り」の行事に、遠い昔の切ない思い出を抱いて「生を盗みながら生き永らえている」老人の思い出の一コマでした。