オリンピックも終盤を迎えて連日のテレビ報道が今や真っ盛りの感です。このテレビの報道を見ていて感じた事が有ります。それは日本にメダリストが誕生すると、テレビの各局が挙ってそのメダリストを自分の局の報道室へ呼んで色々話を聴く訳ですが、どの局のやり方を見ていても、聞く項目は大体似通っており、聞かれる選手の方も他の局で話したことと同じような内容のことを喋っていて「ああ又か・・・」と思って新鮮味が無くなっている事がよくあります。選手のほうは疲れている筈なのに嫌な顔をしないで受け答えしております。こんな事なら全ての局が一箇所に集まってそこへメダリストを呼んで一回で済ませたらいかがなものかと思うのです。こうすれば呼ばれる選手も楽だろうし、同じ事を何回も何回も喋らなくても済むし、局の関係者もずっと経済的で効率的のような気がするんですが。この事は何もオリンピックのj報道に限った事ではなく、日常の生活の中でも特異な事案(事件)が発生した時等の報道にも良く見られる傾向です。テレビの局が増えて、各局がお互いに独自色を出して報道したいと言う競争心の結果でこう言うことが頻繁に行われる様になったものと思いますが、インタビューの対象となった人は大迷惑なのではないでしょうか。有名になった人を自分の局へ呼んでインタビューしながら報道している姿勢を見ていると「私のところの局はこんな有名人を呼べるんだ、どうだ偉い局だろう」と、胸をそらして威張り散らしているようで鼻につきます。沢山ある局全て之をやってしまうので見ていてウンザリしてしまうのです。ニュースは新鮮味が命だと思います。色々手を変え品を変えてやってみたところでそんなに差が出ているとも感じませんし、ほどほどにされたらどうなんでしょうね。加熱するオリンピック報道を見て感じた事を書いてみました。
テレビのオリンピック報道のこと
8月 17th, 2008故郷のこと
7月 22nd, 2008先月下旬に熊本へ行きました。私が小学校三年生から高等学校卒業するまで住んでいた所です。病気で入院していた姉を見舞いに行ってきました。両親が他界した後しばらく振りに孵った故郷です。ここで或る事に気付いたので書いてみます。それは誰もが経験した事の有る事ですが、「小さいころ過ごした故郷へ何年振りかに帰った時、小さい頃に遊んでいた故郷の道路の幅や川の幅や遠くに見えていた山や学校の建物までの距離感等がとても短くかつ縮小して目に映る」と言う事です。これは子供の頃に見た風物が身長の変化と共に視線が高くなった為に起こる現象だ、ということを聞いたことがあり私もそうだと思っていたのです。ところが、今回高校時代まで住んでいた故郷へ帰って久しぶりに見た故郷の風景が「目に見るもの全てが縮小して見えた」のです。高校時代から今日まで私の身長は殆ど伸びてはいない筈です。もし伸びたとしても1~2センチ位だと思われます。なのに、田んぼの中を隣部落まで延びた道路がとても距離的に短く見えたし、家の側を走っている村道もその道幅がとても狭く見えました。更に家から周囲を見渡してみた時、田んぼの向こうに見える隣部落の民家までの距離や見慣れた山々の風景など全てが縮小した様に自分に迫って見えている事に気がついたのです。この現象は一体何なんだろうかと思わずには居られませんでした。きっとこれには「単に身長の変化(見る角度の変化)」と言う要因の外に何か別の理由があるに違いない」と思い始めております。果たしてどんな理由が有るのでしょうか。