先だって、野生に放鳥する前の「トキ」九羽が、順化ゲージの中で「テン」と云う小動物に襲われて死んだと云うニュースがテレビや新聞で大きく報じられた。このゲージの中には全部で十一羽のトキが飼育されていて、来るべき野生への放鳥を待っていたその途中での今回の惨劇である。なんとも痛ましく悲しい出来事である。惨劇の後で係の人が順化ゲージを調べたところ、260か所以上の隙間が見つかったと云う事も報じられていた。この順化ゲージなるものは、おそらく数年前から計画・設計されて作られたもにおであろう。作るに際しても「専門官」の意見を取り入れて出来上がったものであるとも伝えられていた。さて、ここで不思議に思えるのはこの「専門官の意見」と云うやつである。こんな事には全くの門外漢で、かつど素人である私が考えても、人里離れた処に建てられた順化ゲージは、蛇やイタチや狐やテン等の格好の目標物になっていたはずである。それを踏まえて設計されるべき筈のものではなかったのか。それなのに、小動物が入り込める隙間が260箇所以上も見つかったと云うことである。小動物の入れる隙間がこれだけ有ったら、蛇等の入れる隙間に至っては無数に有ったに違いないのだ。一体、専門官と云われる人達はどんな意見を進言したのであろうか。それとも、専門官はもっと厳重な囲いの有るゲージを進言していたのに、それを作った人達が、予算の関係か何らかの理由で、専門官の意見を無視して作ってしまったのか。専門官とは、一体何の専門官なのか、ゲージを作った人達は、専門官の意見を取り入れた設計図の通りに作業をやったのだろうか。いずれにしても、トキが九羽死んだ事は事実である。もともとこのトキ達は、全くの人間の都合である「人工ふ化」とやらでこの世に生を受けたものらしい。それが、これも人間の都合で、ある日突然順化ゲージに入れられ、ある夜突然テンに襲われて命を奪われたのである。翼が有って空を飛べるのに、金網で囲まれたゲージの中から外へ逃げ出す事も出来ないで、無残にもテンにかみ殺されたのだ。この「九羽のトキ達の生命」って、一体何だったんだろうか。トキを襲ったテンも、もともとは外来種の動物で、かって野兎の作物被害に困った農家の意見を取り入れて、国の肝いりで、外国から、野兎駆除の為に輸入された小動物だったと云うことである。それが、いつの間にか国内で増えすぎて、相次ぐ宅地開発で、ねぐらを奪われ、餌が無くなってトキを襲ったのか。だだっ広い順化ゲージの出現でねぐらを奪われてしまったのだろうか。だとしたら、このテンもある意味で、人間のご都合主義の犠牲者なのではないか。ゲージに設置された監視カメラの映像の中で、ちょこちょこと動き回る「テンらしき小動物の影」が私にはどうしても悪者には見えなかった。責任者は誰なんだ。こう云う事が起きるとよく「予想外の事が起きたから」とか「想定外の事が発生したから」とかいって不可抗力だったと言い逃れをする輩が大勢いるが、今度の事も果たして想定外だったと言える事だろうか。順化ゲージが出来上がった時に、これを点検したであろう監督官庁の係官は一体、何を、何処を、どう云う風に点検してゴーサインを出したんだろうか。自分の意に反して生まれて来て(多分そうだと思える)、自分の意に反して命を落して逝った九羽のトキの、短い生涯を思った時、人間の傲慢で自分中心のご都合主義が、恨めしく思えてならなかった。
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「朱鷺(トキ)」のこと
日曜日, 3月 21st, 2010政治家の”道義的感覚”のこと
火曜日, 1月 26th, 2010ここ数年来、政治家が絡んだ事件・事故・各種のスキャンダル等の何と多いこと。連日テレビや新聞などで大々的に取り上げて報道されているので、見たくなくても目に入ってくるし、聞きたくなくても何所からか聞こえてきます。報道されている当の政治家は、沢山のカメラの前で、その都度嘘か本当か解らないような内容の言葉を並べて弁解しております。そもそも政治家とは、国民に選ばれて公の為の政治を司る人の事です。その意味で彼等は我々国民の(或いは庶民の)代表者であり、指導的な立場にある人ではないでしょうか。その人達が、何か良くない事にかかわってマスコミ等から質問された時の言い訳が、口を揃えたように「私は知りませんでした」「秘書がやった事です」等と言って「知らぬ顔の半兵衛」を決込んでしまうのです。事が拗れて裁判沙汰になって、有罪判決を受けても、この態度は変わりません。平然としているのです。この様な姿が連日マスコミで報道された時に、世間に与える影響は大変なものだと思います。その人達の社会的な地位が上になればなるほど、その影響は強くなって来るはずです。庶民ならば許される様な事でも、指導者的立場にある政治家ならば、必然的にその許容範囲は狭くなって来る筈です。そこに「道義的な責任」と云う言葉が出てくる訳です。「そういう規定が無いからいいんだ」「法律に触れて無いからいいんだ」「悪い事をした事にはならないんだ」と云う開き直りの姿が其処に垣間見えます。悪事を働いた人間が、証拠を隠滅した後に追及されて「証拠を出してみろ」と開き直っている態度と何ら変わるところがありません。国政を司る政治家の人達は「庶民ならば許されるような事柄でも政治家だから許されない様な事があるんだ」と云う強い自覚を持ってリードして欲しいものです。テレビ画面を通して、あれこれ言い訳している政治家の姿の何と醜い事!。こんな画面は二度と見たくありません。
各種選挙落選者の挨拶のこと
木曜日, 12月 31st, 2009今年も今日で終わりです。一年を振り返って、今年は色々話題の多い選挙が行われた年だと思います。そしてそれぞれの選挙で「当選者・落選者」に別れて挨拶が有りました。何時もの光景です。当選者の挨拶はさて置き、私が不思議に思うのが“落選者の挨拶”の事です。落選者の殆どが選挙事務所の中で、運動員や支持者の見守る中で「今回は私の力不足で当選することが出来ませんでした、本当に申し訳有りませんでした」というような内容の誤りの言葉で締め括っております。私はこの事が不思議でならないし、時には滑稽にさえ思えてくるのです。何故なら候補者は立候補を決意したその時から、それこそ死に物狂いで戦ってきたと思います。にも拘らず落選したのには色々な原因が有るでしょうが、中でも最大の理由は「この人を当選させようと考えて集まってくれたスタッフや運動員達の努力不足に他ならない」と思うのです。選挙が始まると、どの候補者も一斉に運動員やスタッフを集め「法律で定められた費用」を払って自分の為に運動してもらうのです。この点において全ての候補者が平等だと言う事になります。にも関わらず結果は「当選者と落選者」に別れてしまうのです。どんな選挙でも、候補者一人がどんなに頑張っても、その力はしれたもので、後は運動員達の活動如何で大きく差が付いてくると思われます。それなのに落選者の事務所では、候補者一人が恰も自分が悪者の張本人ででも有るかのごとく、悲痛な表情で、時には涙さえ浮かべて「済みませんでした」と謝っているのです。こう言う時、かの運動員達は何処へ行ってしまうのでしょうか、事務所の裏でこそこそ話でもしているのでしょぷか、本当に謝るべきなのは他ならぬ「この運動員達ではないのか」、と思えてならないのです。運動員達が全員で、この候補者に投票してくれた人達や候補者本人や関係者に向かって「私たちの努力不足でした、本当に済みませんでした」謝るべきなのではないかと思うのです。この候補者を当選させようと思ってその事務所にはせ参じて、法廷の費用を貰った以上、その候補者の為に死に物狂いで頑張るべきなのです。それをどこかで手を抜いて他の候補者に当選されてしまった事には、当然それなりのペナルティーあ有ってもしかるべきだと思うのです。それなのに、落選した候補者の事務所では「候補者だけが謝って運動員は知らぬ顔」と云う構図が、ここ数十年来の各種選挙の度に見られてきた光景ですし、何故だか、世間一般でもこの構図を尤もな事だと肯定している所が有るようです。まったくもって世にも奇妙で不思議な光景だとは思いませんか?